vol.18

フリーペーパー花鳥風月

INTERVIEW 1

手でこねながら「ほうとう」に語りかける。
これがウチの手打ちほうとうの味の秘訣です

-『古民家食堂ごんばち』(藤沢市)
店主 古屋昌壽さん

 

INTERVIEW 2

ゆるやかな繋がりの中で、多様性が生まれる。それが藤野町なんです。

-藤野里山交流協議会会長
中村賢一さん

 

■vege cafe レシピ

しそキムチ

Interview 1 手でこねながら「ほうとう」に語りかける。これがウチの手打ちほうとうの味の秘訣です

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

山梨県の郷土料理として知られる「ほうとう」。
その伝統食の素晴らしさを伝えつつ、人々の心身の健康にもなにか貢献ができたらと、そんな思いを込めて、藤沢でほうとうを打つ古屋昌壽さんとそのご家族を紹介します。

『古民家食堂ごんばち』(藤沢市)
店主 古屋昌壽さん

古民家食堂『ごんばち』そのユニークな店名の意味とは

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

小田急江ノ島線湘南台駅からタクシーに乗って約15分。慶応大学湘南キャンパスのほど近くにある『古民家食堂ごんばち』は、神奈川県では珍しい「ほうとう」(山梨県の郷土料理)を食べさせてくれるお店。切り盛りするのは、店主の古屋昌壽さんと奥様のさちこさんです。
「私たちが生まれ育った山梨の田舎では、小麦粉からほうとうを作るためにこねる鉢(ばち)を“ごんばち”と呼びます。
そしてうれしいときも、悲しいときもごんばちでほうとうを打って食べて、一家団らんを守り続けてきました。お客様にそんな温もりと団らんをお届けできたら、と命名したんです」と語る古屋さんご夫婦。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

温かい家庭料理をイメージさせるのは、店名のごんばちという言葉だけではありません。古民家食堂と呼ぶにふさわしいその外観、たたずまいからも、古き良き日本の家庭の郷愁が漂います。
「ほうとうは田舎料理だから、古民家がぴったりなんです。そこで縁がありお借りした古民家を4か月かけて、80名ほどの仲間とプロの職人さんに手伝ってもらいリフォームしました。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

そして、木とほうとう料理のどちらのぬくもりをも感じてほしいので、柱・梁・天井などはそのまま生かすようにしたんです」と、にっこり笑う古屋さん。
そんな『古民家食堂ごんばち』を訪れると、いくつもの感動体験が味わえます。
最初がお店に到着したときです。店外に「水琴窟」があったり、悠久の時の流れを感じさせるお店の外観は、まさに古の時代に戻ったかのよう。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

次に店内に入ると、ケヤキの大黒柱や、広い天井を横にめぐるいくつもの大きな梁。そしてレトロでおしゃれな竹小舞の支えやカウンターにあしらわれた大きな木版など、存在感のあるいくつもの木たち。
そして店内をぐるっと見渡すと、座敷席の一番奥の壁面が、なにやらにぎやかなスペースになっているのに気づきます。
「だれもが気軽に作品の展示・即売ができるよう、無料のアートスペースになっているんです。
リラックススペースは2階にもあり、“遊々床”と名付けています。親子で遊んでもらうためのスペースとして開放しているんです」と古屋さん。

自然素材と食材を使った“手打ち” ほうとう料理へのこだわりと思い

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

そしてテーブルに着くと、次はいよいよ看板の「ほうとう料理」を味わう番です。
古屋さんご夫婦にほうとうづくりへのこだわりを訊いてみました。
「自然素材へのこだわりです。国産の地粉と天日塩と山梨県のおいしい湧き水を使います。お水は甲州市にある天目山の湧水スポットまで車で汲みに行っています。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

そしてなんといっても“手打ち”作業にこだわっています。
やはりね、人の手から出る遠赤外線がほうとうを美味しくさせるんですよ。これは絶対に機械製麺には真似ができないんです」と、語る古屋さん。
一方で、厨房では料理長的な立場のさちこさんは、具材となる野菜にこだわります。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

「ほうとうという伝統的な食べ物をずっと後世に残したいという思いと、日頃の野菜不足を補ってあげたいという思いがありますね。ほうとう料理1品には、なるべく健康にもよくておいしい旬の野菜を中心に7~8種類くらいの野菜を使います。
普通の家庭では、1食で何種類もの野菜って食べられないでしょ? だからここに来てほうとうと一緒にお野菜をいっぱい食べて、元気になって帰ってもらいたいですね」。
そうした食材は、ご夫婦で季節に応じて育てている自家菜園からの収穫物や、近隣の畜産農家・農家さんの新鮮な食材を使うそうです。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

「身土不二という言葉がありますが、やはり地元で採れたものや伝統料理を食べるというのは、健康にいいと思います。心とからだがよろこぶ料理をお出しすることで、皆さんの健康に少しでも役立ちたいという思いでお店をやっています」と古屋さん。
「人々の心身の健康への貢献」という古屋さんご夫婦の思いは、古民家をリフォームする際にもしっかりと反映され、座敷席の下には大量の竹炭が敷き詰められました。そして不純物を吸着したり、お店全体の場をすがすがしく清めてくれているのです。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

「今はアトピーとか花粉症とか、私たちが子供の頃はなかったいろんな病気がたくさん増えていますよね」と、口をそろえる古屋さんご夫婦。「それが住宅・食事・精神のどの環境によるものかはわかりませんが、大人がそういう環境を作ってしまったという責任はあると思っています」。
『古民家食堂ごんばち』には、そんな社会が抱える課題への解決策のヒントがいくつもあるのかもしれません。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

例えばこのお店では、料理・ギャラリースペース・遊々床などを通して、多くの人たちの社交場にもなっているようです。
「助産婦さんや妊婦さんたちが集まったり、お客さん同士が知り合いになったり、いろんな形で交流が生まれています」と語るさちこさん。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

そして古屋さんご夫婦と一緒にお店を運営する、長女の朝子さんはこう語ります。
「お店だから自宅よりも遊びに来やすいのか、両親の友人たちもよくお店に来て、それぞれに交流を深めています。二人のそんな姿は微笑ましいですね」。都会では、独居老人の孤独死が大きな社会問題となっています。『古民家食堂ごんばち』のようなスペースがあれば、人との触れ合いによって孤立や精神的な孤独からも、自身を守ることができるかもしれません。

古屋さんがこっそり教えてくれたほうとう料理をおいしくする秘訣

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

古屋さんご夫婦が藤沢で開いたほうとうのお店は、じつは『古民家食堂ごんばち』が2店目です。最初に開いたのは、小田急線「六会日大前駅」東口より徒歩約10分の場所にある、1978年創業の『へっころ谷』というお店です。“へっころ=へんぴな場所”という意味を持つこのお店は現在、古屋さんの次男である古屋賢悟さんが経営。もちろん父親譲りの健康志向でほうとうと創作料理を提供し、多彩なイベントも展開します。そして長男の古屋元氣さんは整体師さんと、まさに古屋一家は健康ファミリーなのです。
取材終了後にいただいたお料理は、昆布・椎茸・削り節・煮干など天然の出し汁とたっぷりの野菜が甲州ヤマゴ味噌で味付けされたほうとう料理が絶品なのはもちろんのこと、一緒に出された発芽発酵玄米ご飯もおいしくてスタッフ一同、びっくり。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

「これはいまお客さんにも評判ですね。おいしいし栄養価がかなり高いです」と語る古屋さんに、ほうとう料理をおいしくする秘訣を訊いてみると、こんな答えが返ってきました。
「ほうとうをこねるときにまず、“小麦粉とお水と塩が仲良くなってなじんでおいしくなりますように”と願いを込めるんです。そして次に“食べた人が健康になりますように”と願います。それがまずひとつのおいしさの秘訣です(笑)。
それともちろん、奥さんが子供の頃から身体で覚えてきた、山梨の母親たちが代々受け継いできた、伝統の母の味です。これがなくてはまず、おいしいほうとうはできませんね」。
『古民家食堂ごんばち』の玄関から店内に一歩入った人はだれもがきっと、包み込んでくれるような優しい“ぬくもり” を無意識の中に感じることでしょう。それはこの店にはケヤキの大黒柱の他に、もうひとつの見えざる太い大黒柱があるからです。
長年、二人三脚で連れ添い、支え合ってきた古屋夫妻の絆──それこそが、『古民家食堂ごんばち』を包み込む“ぬくもり”を生み出し、お店をさらにしっかりと支えてくれているのに違いありません。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち


●古屋さんファミリープロフィール
山梨の農家に生まれ育った古屋昌壽さんとさちこさん。1964年に藤沢に移り住み、会社員を経て、ほうとう料理の店『へっころ谷』『古民家食堂ごんばち』を開店。現在は昌壽さんとさちこさん、朝子さん(長女)で『古民家食堂ごんばち』を運営。
役割分担は、昌壽さんがほうとうづくりや接客業務、野菜栽培、ほうとう教室、看板書き、色紙書きなどを担当。さちこさんが、メニュー開発や料理長として厨房内の取りまとめ役を担当。朝子さんが、HPでギャラリー、季節メニューのお知らせ、スタッフと一緒にメニュー開発なども担当。

手打ちほうとう古民家食堂ごんばち

●インフォメーション
『古民家食堂ごんばち』
〒252-0824
神奈川県藤沢市打戻2982
TEL&FAX 0466-48-0055
営業時間 10:00-17:00
定休日 毎週火曜日


長年、二人三脚で連れ添ってきた古屋さんご夫婦の俳句
送り出す 最後の客や 夜の秋 古屋さちこ
薺打つ 妻新しき 割烹着 古屋昌坊
※薺(ナズナ)

Interview 2 ゆるやかな繋がりの中で、多様性が生まれる。それが藤野町なんです。

藤野町

藤野町

芸術の街として、独特の文化をつくりあげた旧藤野町。
相模原市緑区となった今でも、
多くのアーティストや新しいライフスタイルを求める人たちが、
国内外から集まってきます。
その藤野町の街づくりに関わった、
中村賢一さんにお話を伺いました。

藤野里山交流協議会会長
中村賢一さん

本当に何もなかった昭和30年代の藤野町

藤野町

中央線の高尾駅から中央本線に乗り換えて約15分。到着した「藤野駅」ホームから眼前に広がるのは、里山に囲まれた地形を寸分の無駄もなく活用した街並み。ここ周辺はかつて「藤野町(ふじのまち)」と呼ばれ、1980年代の後半からは“芸術の街”として、独自の街づくりを進めてきたユニークな歴史を携えています。
「藤野里山交流協議会」の会長を務める中村賢一さんは、旧藤野町に生まれ育ち、1970年からは藤野町役場の職員として、長年このエリアの変遷にたずさわり、見守ってきました。
「僕は旧小渕村で生まれ育ち、結婚後はお隣の旧日連村で暮らしています。僕が子供の頃は、この日連地域に住んでいたのは70世帯ほどで、表札はほとんどが山崎か森久保。つまりその両家の親戚ばっかりで(笑)。それが今では600世帯を超える村に・・・

藤野町

遊び場といえば里山か近くの小川くらいしかないから、小学生時代は毎日、川に遊びに行っていましたね、親に怒られながら。
藤野は山深い中山間地で、平らな土地はほとんどないから、林業も農業も専業としては育たない環境なんです。だから昭和30年代の頃、この辺で唯一成功した換金産業はお蚕さんくらいだったと思いますよ」。

バブル景気に沸いた影響でベッドタウンとして人気に

藤野町

そんな藤野町に変化の波が訪れたのは、昭和40年代(1970年代)に入ってからのことだったそうです。
「昭和45年(1975年)かな、僕が役場に入ったのは。そのころから、バブル景気になりました。100万円が10年で200万になる金利10%という時代でした。そのころに、どんどん移住者が増えていきました。
ここは八王子や都心へも中央線一本で行けるから、東京が経済発展でにぎわうのと同時に、ベッドタウンとして人気になっていったんです。一気に世帯数が増えて、ピーク時には1万2000人ぐらいまで」。

藤野町

しかし人口は増加したものの、地元産業の振興にはつながりません。そこで様々な街づくりプランが検討されました。
「一般的なまちづくりの手法としては、工業団地の誘致や大型住宅団地建設などが考えられますが、地形など自然環境の過酷さや、土地利用の極めて厳しい規制から時湧現は難しく、そんな中から浮上してきたのが“ふるさと芸術村構想”だったんです」。
いったいなぜ藤野町に芸術が根付いたのか、どうやらそこには自然に囲まれた藤野町がもつ、宿命的な出会いがあったようです。

藤田嗣治と疎開画家たちの存在が藤野町を変える

藤野町

「この町は神奈川県の水ガメ」なんです。だから川は汚せないことから工業系の開発は不可能でした。そんななか、芸術での街づくりを選んだ大きな理由の一つに疎開画家の存在がありました。
第二次大戦中1930年代に、後に世界的に名をはせる藤田嗣治が中心となり、猪熊弦一郎、佐藤敬、中西利雄、伊勢正義といった洋画家たちが集まってきました。1980年代にはそんな疎開画家の遺作が多数発見されました。
こうしたことが決め手になって、1985年以降、旧町役場でも“芸術のまちづくり”が始まることになります。
彼らは「街の通りに、『ピカソ通り』や『マチス通り』と名づけ、湖を見下ろす丘には住宅や学校を整備しよう」といった構想があったそう。藤野町の芸術の街づくりの背景に、そんな藤田嗣治たちの意志もあったと考えると、なんともドラマチックです。

バブルの崩壊により予算難に。それでも増え続けた移住者

藤野町

「そうそう、それ以降はいろんなドラマが生まれていきましたね。『藤野ふるさと芸術村構想』を進めるということで、県のバックアップのもと、街のあちらこちらに彫刻オブジェやモニュメントなどの作品を置いて、1988年からは『藤野ふるさと森と湖からのメッセージ』というイベントも開催を始めました。オーストリアの芸術家に彫刻を作ってもらったり、岡本太郎が来たりしましたね」。
しかしやっとスタートを切った芸術振興もつかの間、その3年後の90年代に入ると、日本全体を暗雲が覆います。それがバブルの崩壊でした。

藤野町

それ以降は、芸術振興のための大きな予算は望めなくなります。一方、芸術の街という旗を掲げたことで、アートにかかわる人たちが移り住んできたんです。
当時の役場としては、そうした人たちの住居のあっせんと、アーティストたちの活動をわずかな予算で支えることぐらいしかできなかった。それでも藤野には、面白い人たちがいっぱい集まり始めていて、外国人たちも増えて、多様性のあるエリアに育ってきます。

学校法人「シュタイナー学園」を藤野に招致する

藤野町

こうした藤野町に新たなカンフル剤がやって来ます。それが現在の相模原市緑区に開校した「シュタイナー学園」の存在です。シュタイナー学園は、ドイツ人思想家ルドルフ・シュタイナーの教育方針を反映させた小中高一貫校です。年齢ごとに育むべきポイントが決められていたり、芸術的感性を養うことに重要性を置いたりと、日本の教育方針や授業カリキュラムとは大きく異なるため、シュタイナー教育は長い間、正式な学校としてみとめられていなかったのです。

藤野町

「シュタイナー学園の招致・開校は、僕の役人としての最後の仕事でした。霞ヶ関との交渉過程ではさまざまなことを経験しました」
招致のきっかけは藤野の小中学校の統廃合でした。小学校統廃合の結果、残った校舎の使い道を考えたときに、シュタイナー学園の誘致が選択肢に入ってきました。学園側も当時、三鷹市(東京)で細々と運営していて、小中高の一貫教育ができるグランドのある公社を探していた。つまり旧藤野町とは相思相愛の関係になったわけです。
旧藤野町議会や地域住民の理解を得るとともに、シュタイナー学校の誘致に向けて霞ヶ関と協議の結果、晴れて「藤野シュタイナー学園」が藤野のやってくることになります。
「シュタイナー学園が開校すると、藤野にもいろんな変化が現れました。例えば富士急が通学ルートを走るバス路線に新たに参入してくれたり、また、学園の方針から定住する家族が増えて、少子化の進行を食い止める役割をしたり、さらに、家屋の新築や住宅の賃貸借など地域経済に大きなインパクトを与えてくれています。これは期待以上の町おこしにつながりました。

さらに、意外な効果として地域医療への貢献があげられます。保護者の中には8名の医師が移住組の中にいて、そのうちの3名がこの藤野に開業してくれました。人が生きていくためにとても重要な地域医療の充実につながったのです。

多様な人たちがゆるやかに繋がり藤野らしさを築いていく

藤野町

多分オーストラリアが発祥地だと思いますが、パーマカルチャーというまちづくりの考え方があって、そのリーダーが藤野に移住してきました。当時では珍しい「持続可能なまちづくり」を模索する活動が始まり、20数年間で約1000人の卒業生が巣立っていきました。卒業生の多くが藤野に移住してきたり、多様な活動の担い手になっています。
「脱成長」や「脱石油」など新しい暮らしの在り方を暮らしの中に取り込むグループが活動している。「トランジション藤野」という任意団体の一つですが、「地域通貨」「百姓クラブ」「仕事と経済」「森部」「藤野電力」などなど多様な活動が始まりました。
 そうした中でも異彩を放ったのが、養蚕農家であり藍染・織物作家として今も活躍するブライアン・ホワイトヘッドさん。彼は1989年にふらっと藤野にきて、結局、鎌沢地区というところに定住する。そして藤野地区でも唯一の「養蚕農家」として認められ、近年、外国籍でありながら「農家資格」を取得したのです。お蚕さんを飼い育て、繭をつくって、糸をとり、染め物をする、そんな農のある田舎暮らしを始めてもう27年になります。

藤野町

この彼の存在が大きくてね。最近は、外国人向けに宿泊型の「お蚕さんワークショップ」を始めたのです。ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、南北アメリカなど、様々な国々から藤野に人が集まってくるようになったのです。
こうした藤野独特の文化が育まれる一方で、2007年、藤野町は相模原市に編入合併され、2010年4月から旧藤野町は緑区となり、その地名から藤野町の名前がなくなりました。
しかし、藤野という名称はなくなってもこれまで築いてきた芸術村のまちづくりは、静かにしかし着実に広がり、年代を超えて繋がってきています。
きっと藤野は今後も大きく発展したりはしないでしょうね。自然もあるけど、それで大きな観光地になることもない。でも、それがこの町らしさなんだと思います。ゆるい繋がりを大切にし、この土地あるものを探し、できることをやる。そんな身の丈のまちづくりが似合う里山を後世に残せたらうれしいですね。

1980年代半ば始まった「ふるさと芸術村構想」はバブルにまみれた行政主導型のプロジェクトでした。ある日バブルがはじけ小さな藤野町役場は路頭に迷い、そして知らず知らずのうちに市民が考え主導する「芸術」のまちづくりに進化してきました。4半世紀という時間を経過して藤野が得たものは「多様な人材」だということに最近気が付きました。これが「ふるさと芸術村」の豊かさなのではないでしょうか。

 













<ふじのアートビレッジ>
森と湖に囲まれた、自然豊かな里山の中にある「ふじのアートヴィレッジ」。周辺に住む作家たちが9つのギャラリーで作品などを展示。作品を見るだけでなく、作家とのコミュニケーションや、制作体験・実演などを楽しむことができます。
住所:神奈川県相模原市緑区牧野5570

学校法人「シュタイナー学園」
統廃合された小・中学校跡地を活用して誕生した小・中・高一貫教育の「シュタイナー学園」。芸術教育を実践するだけに付随施設もユニークでアーティックな形をしています。郵便受けもかわいい。

豊かな自然とアートによって育まれていく「藤野町」
さまざまなアート体験ができる神奈川県立「藤野芸術の家」の外観。
 

 

●中村賢一さん
1952年、旧藤野町生まれ。高校卒業後、旧藤野町役場職員に。現在は藤野里山交流協議会会長として人々の交流を支援する。
 

ビーガン対応★しそキムチ

思い出すのは母の味

ジンジャーとピクルズやしそキムチ

まだ小さい頃、いつも食卓には母のご飯がありました。

あの時、毎日成長する体と心を作ってくれた味は今でも特別なものです。

食べることは生きること。

お母さんの元気なうちに是非「母の味」を受け継いで欲しい。

そのひとつのきっかけになることを願い、このレシピを選びました。

 

キムチペーストは、ほかにも、リンゴや梨のすりおろしと合わせて焼肉のタレにしたり、お野菜やお肉と炒めたり、アレンジも楽しめます。

是非ご家族皆様で一緒に作ってみてください。

しそキムチレシピ ―Ginger&Pickles 小林順子さん―

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

<材料>作りやすい分量

■にんにく・・・大さじ2

■韓国唐辛子・・・大さじ1

■しょうゆ・・・100cc

■ごま油・・・2~3滴(お好みで)

■青じそ・・・適量

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

<作り方>

①キムチペーストを作る

1.にんにくをすり鉢ですりつぶす

2.1の中に粉唐辛子を加え練り合わせる

3.2の中にしょうゆを加え練り合わせる

4..仕上げにごま油を2~3滴加え、ペースト状にする

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

②しそキムチを作る

1.青じそは洗い、一枚ずつ水気をふいておく

2.青じその両面に一枚ずつペーストを薄くのばし保存容器にぴったりと重ねていく

3..しんなりしたらその日から食べられるが翌日くらいからが美味しい(※保存は冷蔵庫で)

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

Ginger&Picklesの外観

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

秦野市東海大学前駅の前に位置

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

厨房の中の小林順子さん

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

青じそは新鮮なものを選びます

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

きれいに洗って水けを切る

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

手で混ぜるのがコツ

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

丁寧にすり込んでいきます

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

裏も忘れずに

しそキムチレシピジンジャーとピクルズや

まずはシンプルにアツアツご飯で!