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大切にしたい伝統行事

伝統行事のいわれには日本固有の季節や風土が反映されたものが多く、その土地で培われた知恵であり真実があります。 家づくりにも伝統行事があります。例えば、地鎮祭。地鎮祭とは土木工事や建築工事において、その土地の神を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る儀式です。
昔の人は自然に敬意の念をもって家づくりを行っていました。 伝統行事は私たちが積み重ねた財産でもあります。だから、私たちは伝統行事を大切にしたいと思っています。

                 

現在1月3日までを三が日、1月7日までを松の内と呼びその間をお正月と言っていますが本来はその年の豊穣を願い歳神様をお迎えする行事でした。
旧暦ではお正月の望月(満月)が1月15日であり、
元旦を大正月と呼ぶのに対し、15日を小正月と呼んだそうです。
お正月のお飾りの中に藁を使った注連飾りとそれを簡
略化した輪飾りがあります。
注連飾りはうらじろと葉付のだいだいとゆずりはなど
縁起物をあしらいそれを玄関の正面へ飾ります。
うらじろ、だいだい、ゆずりは、はそれぞれ長寿・繁栄
・家系が絶えないなど意味があります。
輪飾りはわらの先を輪の形に下をそろえて長く垂らし
それに四手を付けたものを家の要所要所へ飾ります。

しめ縄とは・・・神を祭る神聖な場所を他の場所と区別するために張る縄。また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの。元々は蛇をイメージして作られた。 トレカーサ工事では、現場の安全祈願のため、しめ縄を手作りして現場に飾っています。


節分とは立春の前日であり冬と春との季節分けの日 又、立春はお正月、節分は大晦日にあたるので一年間の厄払いの為の豆撒きをする。豆撒きは鬼に豆をぶつけることにより邪気を払い一年の無病息災を願う行事でありかつて寺社が邪気払いに行った「豆打ち」の儀式を起源としている、室町時代から続く風習である。初期の頃は後ろ向きに撒いていたそうです。鬼が祀られている寺社では、「鬼も内」と掛け声をかけるところもある。

[耳情報]元来家長が鬼を払うために豆を撒くので父親が鬼の役をするのは間違いです。


雛祭りは「上巳の節句」と言われ五節句の一つです。もともとは3月上旬の巳の日に行われていた行事で、老若男女関係なく穢れを祓い流し無病息災で暮らせるようにと紙で人形を作りそれをなでて穢れを移し、川や海へ流して災厄を祓うという神事(祭礼)でした。3月3日頃が巳の日にあたる為現在ではその日になっています。

丁度その頃に桃の花が咲くので「桃の節句」とも呼ばれています。

室町時代の書物にその記載がありそれ以前に記録が無いためおおよそその頃から始まったと言われています。その後平安時代に宮中での雛人形遊びが小さな女の子の間で行われるようになり現在のような雛壇飾りが出来たということです。江戸時代に入り川が汚れる為流し雛はだんだんと減り現在の雛祭りの形態が定着しました。

「流し雛」の風習を今も受け継いでいる地方もあるようです。


春というと桜を思い浮かべるほど日本人にとっては季節を感じる風物詩となっています。

開花の期間は短く、かおりは少なめで小さな花ですが、ぱっと華やいだ明るい気持ちにさせてくれます。「お花見」は、はかなく散っていくまでの間を楽しむ行事として昼夜とも各地で行われ、老若男女問わず桜に酔いしれます。

平安時代の美人の代名詞 小野小町 も桜の花を歌に残しています

「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」


端午の節句とは五節句のひとつです。

(人日の節句・・七草粥・上巳の節句・・ひな祭り・たんごの節句七夕の節句・重陽の節句)奈良時代から続く古い行事で、もともとは月の端(はじめ)の午(うま)の日といういう意味でした。月の初めは季節の変わり目で、気候が安定せず病気にかかりやすい時期でもあり、無病息災を願い始まったと考えられています。

一方には、早乙女(田植えをする乙女)=田の神に備えて家に篭って菖蒲を束ね軒に挿し田の神を祀った女の人の節句ともいわれていました。

 

現在は五月五日に固定されていますが、牛と五の音が同じということでそのようになったと言われています。

奈良・平安の時代には災厄を避け魔物を祓う薬草として香の強い「菖蒲」や「蓬」を軒に挿しあるいは、「湯」に入れ「菖蒲湯」として浴びました。又、臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり菖蒲の葉の薬玉を柱に下げたりしました。時代が武家社会に移るにつれこれまでの風習が薄れ「菖蒲」と「尚武(武を尊ぶ)」をかけ、この日を大切にするようになりました。

江戸期以降は、大事な式日となり大名や旗本は江戸城に参り将軍にお祝いを奉じました。またこの頃から、男子の節句とされ身を守る「鎧」「兜」や立身出世を願って「こいのぼり」を立てて成長をお祝いしました。 初節句(男子が生まれてはじめての節句)には粽を、2年目以降には柏餅を食べます。この柏餅は新しい芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家督が絶えない」縁起物として食べられています。

”こいのぼり”は江戸中期以降に飾られるようになり、当初武者のぼりの「鯉の滝登り」という立身出世祈願の図柄から派生した「鯉の吹流し(神主さんにお祓いの大麻(おおぬさ)と同じ身に付いた穢れや罪を祓ってくださる道具)」(幟旗の付属品)でした。大空で鯉が泳いでいる形は武者幟の変形で、庶民(町民)の間から生まれたといわれています。中国に古くから伝わる登竜門の伝説(登竜という激流を鯉が登り竜になった)になぞらえ我が子の健やかな成長と将来の出世を祈願する意味があります。この頃は和紙に鯉の絵を描いたものでしたが、時代と共に破れない錦のこいのぼり(大正時代)へと変わってゆきました。

”鎧””兜”は無病息災を願う端午の節句に武家では堀や門に柵を作り、兜や槍やなぎなた等を並べていた外飾りでした。やがて鎧兜を着せた武者人形を飾るようになったそうです。

でも庶民は、本物の武具は持っていません。そのため当初は厚紙等で作り飾っていました。これが五月人形の始まりと言われています。

元禄期を向えると小さな幟や史実に残る弁慶などの人形が盛んに作られ飾られました。この頃から武家と庶民に差異がなくなり現在のような内飾りが主流になりました。


七夕は五節句の一つであり<しちせきのせっく>とも呼び七月七日の夕方を意味しています。 (*節句とは季節の変わり目であり各地で節句ごとに邪気払い、農耕を行う人達の占い、収穫を願う祝い、などを様々な形で行う風習。) もともと日本では「棚機つ女」が織った布を紙に奉げ無病息災を願った行事というものがあり,それが「たなばた」の語源になったということです。
平安の頃、竹竿に糸をかけ星に願いを祈るとかなえられるという乞巧奠〈きこうでん〉の習わしをまね『梶の葉』に歌を書き付ける<星祭>を行っていました。
その後大衆に広がり日本古来の棚機津女〔たなばたなつめ〕の信仰と結びついて現在のような風習になりました。
竹の竿に願い事を書いた短冊(昔は詩歌)を軒先に建てる風習は江戸時代から行われるようになりました。それが広まり現在商店街などで大規模なお祭が開かれるようになりました。

 

織姫と彦星の伝説

恋人であった織姫(織女星)と彦星(牽牛星)が天帝に見咎められ一年に一度天の川を渡って逢瀬を重ねる日との伝説があります。

[もともと織り姫は天帝の孫娘で機織がとても上手でした。人間界に住む寂しい境遇の牽牛星は一緒に畑仕事をしていた年老いた牛がいましたがその牛があるとき人間の言葉で「もうすぐ天帝の娘たちが銀河へ入浴しにやってくるが、その時に天女の衣を隠せばお嫁さんにすることができるよ」といいました。牽牛星は天女たちが銀河へとやってくるのを待ち織姫の衣をつかみ取って逃げほかの天女たちが天界へ逃げた後に、衣の持ち主であった織姫が残りました。 その織姫に嫁になってもらえないかと頼み承諾した織姫と牽牛星はしばらく幸せな日々を送り子を授かりましたが天帝の知るところとなり織姫は天界へ連れ戻されてしまいました。

とこのような伝説は日本だけではなく広く東アジアと呼ばれる地域に色々な形で伝わっています。

昔の日本人は夏と冬の夜空に天の川を見付け歌をつくり神秘な夜に思いを馳せました。

『天の川 楫の音聞こゆ 彦星と織女と今夜逢ふらし』


十五夜:旧暦8月15日・十三夜:旧暦9月13日

日本では古くから望月(もちづき)いわゆる満月を拝する信仰がありました。

満月は欠けたところが無く豊穣と権力のシンボルであり月光には神霊が宿っているとも信じられてきました。

十五夜(中秋の名月)はもともと中国で行われてきた行事が日本に伝来し、当初は宮中での風流な「観月」が主体でしたが、それが一般庶民に広まり「月見」は農耕儀礼としての性格を強く表すようになりました。

一方、十三夜の「月見」は日本独自の風習といわれ、宇多天皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも言われています。

 

一般的には十五夜の「月見」をしたら十三夜の「月見」も必ずする事とされ、十五夜だけでは「片見月」といわれ嫌われています。

十五夜は魔除けの(すすき)と芋等を供え物とし芋の名月とも呼ばれ、十三夜は栗・豆等を供え物として豆の名月と呼ばれているようです。

また、十三夜の晩の天気で翌年の麦の出来を占ったので小麦名月と呼ぶ地もあるようです。そして日本各地では色々な風習が残っており、例えば、その日だけ片足程度なら他人の畑の作物を盗んでも、お月様が持って行って下さったので縁起がいい(片足御免)とされているところもあるようです。

十三夜の頃は晴れる日が多く空気が澄んでいるので“十三夜に曇りなし”と言われます。

 

○余談ですが日本の言葉は美しく、昔、宮中で行われた観月の宴などでは望月を題材とした歌がたくさん詠まれています。

「この世をば我が世とぞおもふ望月の欠けたることもなしと思えば」


元禄12年10月6日(1569)甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康軍とが三増の山野で大山岳戦を展開しましたが、北条軍2万余騎は敗れ小田原に敗走しました。両軍兵力3万3千、死者は4千人といわれています。

 

三増合戦祭りリポート

和太鼓の演奏

辺りの山々に響きわたる和太鼓から三増合戦祭りが始まります

合戦碑

元禄12年10月6日(1569)甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康軍とが三増の山野で大山岳戦を展開しましたが、北条軍2万余騎は敗れ小田原に敗走しました。両軍兵力3万3千、死者は4千人といわれています。

甲冑姿

甲冑姿の地域の方々が出陣式をします。 (1)太鼓演奏~(2)甲冑隊出陣式~(3)式典~(4)平成三増合戦~(5)和太鼓演奏~(6)舞踊~(7)抜刀術~(8)剣踊~(9)舞踊ショー~ (10)和太鼓演奏~(11)歌謡ショー などが行われます

たくさんの人が参加し、出店も出店しています。


氏神様(八百万の神[やおよろずのかみ])は皆様がお住まいの地域でいつも私たちを守ってくださっています。

その氏神様は建物を建てる前の土地のお払いから始まり様々な建築儀礼に関わっています。

 

【地鎮祭-とこしずめ】 建築工事を始める前に土地の神様へこれからこの場所に家を建てたいのでよろしくお願いしますというご挨拶と土地のお祓いと清めを行うお祭りで、工事の安全と今後の守護をお願いします。工事の関係者、建主が参列して祭壇にお供物を供え真美様をお迎えします。

 

【上棟-たてまえ】 柱・梁・棟木などをあげる際に行われるお祭です。 建物や匠の神をお迎えし氏神様と一緒に記した棟札を中央の一番高い柱へ貼り棟木に上棟幣(上棟幣)を立てて行います。 かつては、魔よけの弓矢を棟木に飾り曳綱・槌打・散餅銭を行っていたようです。現在でも弓矢の飾りと散餅銭(餅や小銭等撒きご近所の方に振舞います)はたまに行いますが多くは省略して行うことが多いようです。このお祭後、直会(なおらい)が行われます。直会では建主が工事関係者の日頃の労をねぎらいます。

 

【竣工-しゅんこう】 建物完成に伴い建主が入居する際に行われるおまつりです。新築の建物を祓い清め無事の完成を奉告し、建物の今後の安全と末永く繁栄することをお祈りします。現在は省略することが多いようですが、地鎮祭から長い間誇示を見守っていただいた氏神様に無事の完成を報告する意味もあります。